
※スクロール注意※ ※ブルサファEND後すぐの話。
貸し出された部屋の扉を閉めて、電気を点けることもせずにそのままベッドに寝転べば、久しぶりに見る天井が視界に映り込んだ。 2月の間貸してもらっていた部屋だ。すっかり見慣れてしまった様子のその天井を、ぼんやりと見つめる。
不可抗力とはいえ、まさかまたこの家に上がり込むことになるとは思っていなかった。 何かしらが起きる可能性を考慮して、明日も休みを取っているのでまあこれと言って問題はないと言えばないのだが、この家に上がり込むつもりはこれっぽっちもなかった自分にとっては、この状況は誤算でしかない。 そもそも鍵だって無理やり時間を作って、彼が居るであろう時間帯にここに返しに来ることだってできたのだ。それをしなかったのは、この空間が自分にとって心地の良いものだという認識を少なからず持ってしまっていることを自覚しているからで、必死で固めて囲って蓋をした『弱さ』というものが、ここに居ると隙間から漏れ出る感覚があったからだ。
だから2人で出かけたときに返そうと思った。どうせ彼のことだから、そのうち2人で出かけようと誘って来るだろうと思っていたし、何より『忙しいから』というここに近寄らずに済む大義名分もあったから。
今日返すつもりでいたのだ。本当に。 鍵を返してさえしまえば、この家に来ることも余程のことがない限りなくなるだろうから。 返してさえしまえば、隙間から漏れ出るそれも、そのうち消えてなくなると思ったから。 それなのに、返そうと思って持って行ったはずのこの家の鍵は、何故か今も俺の手の中にある。
水族館でのやり取りが、彼の言葉が脳裏を過る。 正気を疑ってしまうほどに、さらりと譲ってきたかと思えば、別に使って欲しいとかそういうわけじゃないと、必要ないと判断したならポストに入れてくれて構わないと言ってのけた彼のその言葉の端々から、どうしようもないくらいの、自身に向けられた嘘偽りのない『情』を感じてしまって、ひどく居た堪れないような、むず痒いような感覚を覚えた。
そうしてぽつりと、気付いたときには礼がひとつ、こぼれ落ちていたのだ。
らしくないと思う。 いつもの自分であれば「大きなお世話や」と言って、その場で突き返したはずなのに、その鍵をそのまま突っ撥ねずに譲り受けたことも、彼の言葉に礼を述べてしまったことも。 全部、全部、らしくない。彼の傍に居ると調子を狂わされてばかりだ。
『ひとりでいい』
その気持ちに嘘はない。 だって、もうあんな地獄のような思いをするのはごめんだ。 舞台を、酸素を奪われるわけにはいかない。 二度と奪われたくない。殺されたくない。
だからひとりでいい。自分はひとりで大丈夫だ。 信頼すればする程に、相手に付け入る隙を与えることになる。 いつまた掌を返して、息の根を止められるかわかったものではない。
線を引くとそう決めた。 強く、濃く、線を引いて、誰も寄せ付けないと決めた。 差し出された手は利用するため以外では握らないと決めた。 掴もうとする手はするりと避けて、微笑んではぐらかして、決して掴ませないと決めた。 興味を持って近寄る相手には突き放す言葉を吐いて、それで相手が傷付こうと、これでいいのだと自分に言い聞かせた。
嫌なのだ。もう、二度と、絶対に奪われたくない。 また奪われたりなどしたら、今度こそ俺はきっと気が狂ってしまう。壊れてしまう。
まるで烙印のように刻まれた記憶は、脳裏に焼き付いて離れない。 癒えることなんてない。 一生俺を蝕んで、黒く淀んだ汚れはこびり付いて、消えることなんてない。 だからひとりでいい、誰も、誰もいらない。
だれも、いらないのに―…。
「―…隣に、立たせてください……やって…」
あの時するりと口から零れた言葉をぽつりと呟く。 拾われることもなく空気に消えて霧散するその言葉を、頭の中で無意識に反芻する。
「………何で言うてもうたんやろ…」
口にするつもりなどなかった。 普段の自分であれば、もっと別の言葉を口にしていたし、トラウマだって、弱さだって、口になんてしなかった。 それなのに。それなのに、だ。 意識する間もないほどに、スルリスルリと溶け出た言葉達は、どうしようもないほどに弱くて、脆くて。 懇願するようなそれを、冗談だと、舞台やドラマの台詞と同じだと、そう言って笑い流すことすらできなかった。
「何で―…」
何でできなかったのだろう。 うまく誤魔化す方法なんて、彼以外にならいくらだって思いつくのに。 誤解されそうな言葉も、そのままにしてしまえばいいのに。
そう思うのに、いつぞやの彼が見せた悲しそうな顔が脳裏を過って、気付けば口からはらしくない言葉が零れていて、それを聴いた彼が目を柔らかく細めるのを見て、どこか胸を撫でおろしている自分が居るのだ。
するりと滑らせた指で、彼がくれたピアスに触れる。 小さくシンプルなデザインながらも、ダイヤが嵌め込まれたそれを、バレンタインのお返しだと渡してきたときには金銭感覚がバグってるのではと思ったが、復帰祝いも兼ねてと言われては受け取る他ない(それでも恋人でも家族でもない人間に、ダイヤを贈るのは金銭感覚的にどうかと思うが、彼の経歴的に仕方がないのかもしれない)。
ピアスを付けるために這わされた指先の感触を、覚えている。 言葉も、仕草も、視線も―…全部、今日の彼を、全て、覚えている。
彼の触れた箇所が、熱い。
「―……ただの、気まぐれや」
じわりじわりと広がり始めたその熱を誤魔化すように、わざと大きな音を立てて布団の中へと潜り込む。
「気まぐれに、決まっとる…」
潜り込んだ布団の中で、ぽつりとつぶやいた言葉は、どうしようもないくらいしっくりなんて来なかった。